自分の体を知る

20065月追加:リンク:雑歌屋でのアレクサンダーテクニークの話(他のHPへリンクできます)

 

 

リラックス法・自己催眠法

テクニックアレクサンダーとそのレッスンの模様

参考の本

 

 

自分の体を知る

「自分の体を知る」とは、どういうことでしょうか。提案しておきながら、うまく説明できるのかわかりませんが、自分のからだが、どんなとき、どんな反応をするか、病気という意味ではなく、「カラダトイウモノ」として自分の体はナニモノなのか、知っておいたほうが、得なような気がするのです。ヨウワカランガ 

そうすれば、体の痛みに、もしかしたらのみこまれないのではいか、私のほうが、いや、私も、カラダを、あるいは痛み(の感じ方)コントロールできるのではないか?という、小さな希望があります。痛みをも「受け入れて」同居する、楽な方法なのかもしれません。

 

知っていて良かったと思う、二つのテクニックの話をします。リウマチになる前から知っていたものです。

リラックス法とアレクサンダー・テクニック(なぜか日本ではテクニーク)です。

人から施される受身のマッサージなどと違って、自分自身が参加しなければなりませんから、リスクが少ないと思います。ソンはないから、試されてはいかが?

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リラックス法・・・あるいは自己催眠法

 

これは、精神科医から紹介されたものです。調子が悪くなってからするのではなく、普段からある程度定期的に行い、普段の調子をある程度保とう、というものかな、と思います。理想は、一日数回。日常のストレスが溜まったとき、それで調整し、気持ちのそうじをし、次の日へのストレスへ備える、ということ、と理解しています。

ちなみに、本当に落ち込んだときは(って、鬱のときですね、要は)、こういうことをやる気にもなりません。まったくもって、何もやる気になりません。

「そりゃ当然です、欝ですからね」とにこやかに言われ納得しました。こういう「サイテー」の落ち込み時は、薬の力を借ります。それで落ち着いたら、またその気になります。なるでしょう。いや、たぶん。まずは、のんびりして・・・

 

やり方(超省略)

静かな環境で

横になり、リラックスしている、と思う。

両手、両足が重く、温かい、と暗示をかける。・・・ことから始まります。(まもるべき順番があります)

 

この元になったと思われる「リラックス法」の本も読みました。ストレスのせいで心臓に問題が起きたりして急死、ということもある。ストレスから開放されよう・・・・そんな中から開発されたらしいもの。開発者によると「一日1時間以上これをしていれば、ストレスから逃れられ、長生きできます」とありました。しかし、このプログラム、ものすごく細かいんです。全体を把握し、からだに取り入れるまで、すごく時間がかかるんです。

社長さんとかなら、毎日1時間でもとれるけど、庶民には、そういうわけにいかないんでないかい?リラックスに毎日1時間とってたら、首になっちゃいますよ。ストレスためていてもいなくても、結局は同じ人生の長さになるんじゃ!?

実験例では、戦場で簡単にしたプログラムを応用した所、ストレスでイライラした兵士が減って、命中率が増えたり、自分の飛行機の操縦ミスとかも減ったそうで・・・・ちょっと、いやな例だな

 

中身(大幅に省略)自分で、カラダ(例えば腕)に数秒力を込めてみる。そのあと、力を抜いてみる。力を抜いた感じがわかりますか?

これを、からだのそこかしこの筋肉に施して、力の抜き具合を知り、それをもとにリラックス、する、というものなんです。つまり、まずは筋肉の力を抜いた状態=リラックスの状態を、部分的に自覚することから始まるのです。

全部学ぶまでに、気が遠くなったので、私は数箇所で実験したくらい。

参考の本はこちら

 

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アレクサンダーテクニーク

これは、ミュージシャンやダンサー、俳優などに多く支持され、日本でも紹介されているようです。特別な「舞台術」のようですが、なんのなんの、普通の日常にとても役に立ちます。うまく説明できませんが、リラックス法とは基本的に違うと思います。しかし、関節リウマチさんにも、役に立つことが隠されているのではないか、と思っています。

 

リラックス法は、日常のストレスを「受けちゃって」、「ひと段落ついてから」おもむろに「特別な時間をもうけて解消する」。

テクニックアレクサンダーは、ストレスに襲われた「その場で、瞬間瞬間にストレスから自分を逃す」という気がします。また、ストレス、という見方ではなく、体の状態に目を向けます。

 

緊張するということは、からだのどこかが固まっている、ということです。何か起きたとき、そこをあわててほぐそうと思っても、普段やっていない動作なので神経がかえってそこへ集中して逆効果となり、ますますかたまることになります。痛みを感じたとき、さらにそこへ緊張をくわえてしまうということもあります。私は歯医者へ行くと、しみじみ感じます。

 

長い人生を生きてきた自分のからだは、「自分のからだの癖」を持っています。それが、単に長年してきたため、自分にとっては慣れたものであっても、実はからだのためにはあまり親切ではない、ということもあります。例えば猫背です。

「新しい」「無理のない」からだの「楽な」「自由な」「背骨がのびのびした」スペースのある体の「新しい体のあり方、姿勢」を探すのが、このテクニックです。

たとえばレッスンではまず、力を抜いた状態を知ります。ただしそれは「固定」したものでなく、「一瞬一瞬かわっていく」生きたものですから、

「これだ!この状態だ!」という気がしても、翌日にはまた新しい感覚になっていることになるので、毎日さがしつづけることになります。

 

慣れて来しだい、日常生活に応用します。普段、たっているときの姿勢に気をつける、とか、イスに座ったり、いすから立ち上がる、という動作の練習もありますから、思い出せば、すぐさま活用できるわけです。

無理な力が入らない状態でうごくことを知ると、次から次へ、新しい動きができます。新しい感覚です。

 

頭で思うことは、体によっても左右されます。

体がリラックスすると、それをクリアすることもできます。

 

たとえば「演奏をする」とき。

もし「間違えて弾いてしまった」ら、後悔しても、もうその瞬間は帰ってきません。「あっ」と思い、気にした瞬間、からだは固まります。しかし、それを「しまった」と気にしていても、いいことはありません。体の緊張が次の失敗を招きます。そのために、つづきもがたがたになってしまう、という、ありがちなことになります。くよくよする、というヤツです。

ですから何か失敗したとしても、すぐにそのことは忘れて、力を抜いて、前向きに次へ進むということを考えます。頭の中も固まりますが、からだの動きも、緊張から開放しましょう、ということです。

 

さて、関節リウマチの場合の応用は、どうでしょう。

「痛い」とおもったとき、その箇所を気にし続けない、集中しないことに役立たないでしょうか?「痛い一点(あるいは数箇所)」のみに気をとらわれず、「全身の流れ」の中に、痛みを位置付け、そこだけが痛い、という考えから離れるのです。

部分的に炎症がひどくなり、例えば膝が痛くなったりするのですが、これも、膝は足先にまでつながっており、上は骨盤につながっている、ついで、背中につながっている、と思えば、膝という一点のみではなく、全身を考えることになります。

手が痛い場合も同様、手は肘につながり、肩につながり、はては背中につながり、背中は骨盤から背骨をとおって上へ向かっている・・・ということです。

 

私の場合は、今のところ痛みよりも、気分的な「ストレス」が来たな!というとき、応用せざるを得ません。(^_^;)

なんだか、この状況はイヤだな〜、と思うと、どもったり、声が小さくなったり、考えが出なかったり、とい、いろんな形で反応します。つまり、どこかが固まっているのです。もともと柔らかくない頭もさらに固まっていますが、実際問題として、からだのどこかも固まっています。ムカッ腹がたつ、というときには、おなかの筋肉、そして横隔膜が固まっていることでしょう。横隔膜は、呼吸を支配していますから、ヒステリーになったら呼吸の異常があっても、自然なことです。

 

とにかく、こんな場面で「落ち着け」と頭だけで自分にいいきかせるかわり、からだのあちこちの力を抜いてみたり、体の中ににナガレがあるかどうか、そちらに気分を向ける(そらす、といった方がいいのかも)のです。ちょっとは、ましになります。

 

このテクニックは、舞台に出ていたアレクサンダー氏が声がでなくなったのに困り、解決法を探したことに始まりました。声が出ないということは、姿勢から来ていることに彼は気付きました。首が前に出すぎていたり、背中が固まっていたり、無駄な緊張がからだのあちこちにあったり・・・・しかしそこで「背中を真っ直ぐに」と考えても、良い結果は生まれないことにも気付きました。

 

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レッスンの模様

わかりにくいとは思いますが、私の経験しているレッスンの状態を書いてみます。今までに3人の先生に出会いました。どの先生も、人間とのコンタクトに興味を持っているので、人間味があり、おもしろいです。

 

実践では、レッスン用の硬い、高い大きなテーブルに横になります。まずは、力を抜き続けます。重力に身を任せ・・・って感じです。先生は、手であちこちに触れます。お互いにどんな状態か、それを手を通して知ります。先生の手に触れられている所に、特に注目して、その箇所の力を抜いてみます。

“生徒”の私の方が受身のようですが、先生のほうもまた、自分のからだのコントロールを続けます。先生のほうに緊張があったら、私の体の様子が伝わらないからなのです。私の小さな緊張は、手のひらを通して伝わりますし、私もまた自覚があることもあります。

 

背骨をできるだけ楽に伸ばしていく、関節をのびのびさせる・・・・・・神経が自由に行き来できる通路をあける、とでも言ったらいいのかしら。

始めたばかりの数年前は、リラックス法のように考えていたので「集中しよう」と目をつぶっていましたが、今は目を開けたまま、わざといろんな話をするようにしています。(まあ、昔はフランス語の話ができなかったと言う話しがあるが) 嫌な話、悩み事の話をすると、見事に体に反応して、すぐさま固まるのがわかります。それをほぐすのがまた勉強になります。ストレスに「いつでもどこでも対応できるように」です。

その後、ゆっくりと座り、立ち上がります。横になり、力をぬくことで、ストレスや疲れという名の粒粒入りのオレンジジュースの粒が、コップのそこに沈んだ感じ。それをまた、縦にするのですから、ちょっと、くらりと来たりすることもあります。

おさまったら、椅子に座ったり立ち上がったり、歩いたりして、普段の生活の動きの中での体のながれを探ります。

最初は、レッスン時間内のみでからだの状態を追求することになりますが、だんだん日常的に応用できるようになります。そのためのレッスンです。

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手の手術のあと、レッスンに久しぶりに出かけました。終わったら、なんだか、贅沢な、全身マッサージを受けたような感じでした。「今日は休憩してね」といわれました。体も、内からも外からも、受け止める感触だか何かが変化しているから、体がそれに慣れるまで時間がかかるのだと思います。

それにしても、いつもと同じなのに、どうして今日は「たっぷり目」に感じたのかしら?それを、どう理解するのか?久しぶりだから、私の体が敏感に受け止めたのか?過剰反応か?と思ったのですが、「少しの反応でも、(以前と同じ位の反応でも)以前より大きく感じることもある」と言われました。

ということは、一応、進歩、というか、レッスンがわかりやすくなっているのかな?あるいは、もう、比較なんて意味がないくらい、おもしろい体の変化があるのかもしれません。進歩という言葉は場違いだし・・・

 

感覚は本当に小さく、「あ、これだ」と思ったときに先生からも反応があります。また、自分ではなにもしていないつもりでも、先生のほうは反応を感じることがあるのです。体は、本当に不思議です。例えば肩こりのヒトが目の前にいたら、肩をもむ代わりに、一度、両手の平を、その人の肩に乗せてみて、あなた自身が、手の力を抜いてみてください。その人の肩の緊張具合が感じられます。しばらく続けていると、相手も力を抜くことができるかもしれません。

 

日本でも、音楽家むけということが多いでしょうが何人か先生がいらっしゃるようですから、興味のある方は、のぞいてみてはいかが?グループレッスンもあるようです。ネットで探してみてくださいね。

(なお、日本での表記は「テクニーク」の場合が多いようです。「アレクサンダー」あるいは「アレキサンダー」かもしれません。)

リハビリをされる方、病人の介護で力を使う方にも、体の安全な使い方、という意味で役にたつでしょう。

 

たまたま声楽の先生にえらく勧められ、名前だけはフランスに来てすぐ知りましたが、レッスンを受け始めたのは数年たってからでした。

はじめは、リラックス法と平行していたこともあり、力を抜くこと事態に集中し、眠くなったりしました。(それでも良いのですが) 今は、別々に考えています。

今も、教えたり施行するには程遠い立場で、でも、ものすごく1時間の結果を楽しみに通っています。いつかは指導出来るようになりたいと思う気持ちはありますが、たくさん勉強しなければいけないみたい。

 

おもしろいのは、先生は、レッスン?が終わったとき、私に「ありがとう」とおっしゃること。

先生もレッスンの間はテクニックを実行しているわけなので、結果として「お互いさま」なんでしょうね。

いらいらしていたらレッスンできないわけで・・・健全な心もちのお付き合い!?

 

参考の本

 

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