縦長シリーズ

幻の湯治場

外国での治療

日記のようなもの

手術について一考

 

日記・メモのようなもの 2005年より記す

 

 

失った両手口で描いた絵知らないことを話すまえむきか一生飲む薬生き方・暮らし方

 

 

 

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失った両手

事故で失った両手の移植手術が成功、と言う話を聞いたのは5年ほど前だったろうか。例のない手術にいどんだフランス人に、がんばって、と思ったものだった。月日がたち、久しぶりのその人をニュースで見た。普段の生活になんとか役に立っているらしい。ごつい田舎のおじさんの顔だが、手は、なんだかやけに白い。すごいじゃない、と思い、リハビリ師に話をしてみたら、あまり、いい顔をしない。

 

「やる価値のある手術だったのか、疑問だ」と言うのだ。

 

彼の言うことをよく聞いて、想像してみると、こういうことだった。

 

・まず、手術医は、手の専門家ではない。(移植関係らしい)フランスには、手の手術の専門家がいる。

・移植というのは、他人の体を植え込むことだから、体が受け付けない場合もあり、リスクが大きい。うまくいかせるには、薬を飲む必要もある。薬を飲む負担をかけてまでやる意義のある手術だったのかが、疑問である。

・心理的な負担も大きい。

 

つまりは、手の専門家でもない医者が、名声を求めてやった手術ではないのか、ということのようだ。たしかに、ニュースでは「両手の移植が成功したから、次は、顔の移植を目指す」と言ったので、なんだなんだ?と思ったのだ。合うあわない、というリスクに関しては、内臓関係の移植手術ならば、手術はうまく行ったが、その後の傾向が悪く、死亡に至ることもある、というくらい、重大なものだ。

また、もしかして、切れた手の部分が残っていて、それをつなげることもできたのに、あえてそれをやらずに他人の手を移植したんじゃないのか、という疑問も勝手に持ってしまった。

でも、他人の手でも、大して動かなくても、あったほうがいいよ、センセー。と気持ちは言いたかったが、彼のいうことも、もっともだ。

名声を求める医者はいつでもどこでもいる。

 

同じころ、やはり違う国で同じ手術が行われたが、こちらの人はあらためて、結局切り取ってしまったそうだ。イライラしたのかなあ、と思っていたが、どうも訴訟を起こしたりしてるらしいんで、これって、金からみ過ぎ・・・?

 

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口で描いた絵

2004年年末、うちに届いた手紙を見ていたら、絵入りカレンダーが入っている。よくよく読むと、手が使えない人たちが描いたものだという。写真もはいっていた、絵筆を口にくわえたり、足で挟んだりして、もともと手がない人も、描いている。彼らは笑顔であり、絵は明るい。カレンダーはありがたく頂いてしまったが、基金募集の手紙だったので、お金は送れないでいる。かれらにとっては、これが一番お金のかからない宣伝方法らしいのだが、いきなり送られて、びっくりしたから。人に宣伝したり、プレゼントのために追加に買う分にはいいのだけれど・・・・・

 

実際に、関節リウマチだった画家もいる。

いつか、そんなときが来たら、こんな勇気が私にも、もてるだろうか?

 

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知らないことを話す

できるだけ控えたい、検挙でありたいことのひとつが、これである。態度がでかいようだが、自分の専門のことを素人が話していると、ハア?っということがあるからだ。だから、逆に、知らないことをしったかぶり、あるいは、知っている最大範囲で一生懸命話すのも、相手と場合を考えてからにしているつもりだ。

何故こんなことを思うようになったのかと言うと、きっかけはパソコンだったりする。始めたときは全く、無知である。身近に意見を求められる連れ合いも、無知である。無知どおし、知恵をしぼりあって、解決方法を探す。今は慣れてきて、多少は人を助けることもできる。しかし、そういう時、聞いていない人と言うのがいるんでありますな。例えば、はじめての新品のパソコンは、まだインストールする必要のあるソフトがあったりする。何となく、あそこへ行けば、あれをこうしてこうすれば、インストールの手順に入れるだろうなー、と思って眺めていたり「全てのプログラムで探したら?」となんども私は言うのだが、マウスを握った本人は聞いていない。だからな、DVD見るのに、30分かかってもできないんだ。CDじゃなくてDVDなんだから、DVDと言う字が出てくるプログラムをさがせば、ホラ1分で用意できたじゃん。

・・・・・もう、お礼の言葉も期待していません。

 

そんな具合だから、質問するときは、覚悟している。アホなしつもんですいませーんって。専門家には、子どもの遊びみたいなものなんだろうからなあ。

 

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まえむきか

よその掲示板で、こんな発言を見てしまう、「なんでこんなに明るいんですか、あなたのいうことなんて信じられません」

そういえば、私も、サイトを見始めたころは、うそおー、と思ったものだった。リウマチを友達とか言ったり、それでしあわせになったとか、信じられない発言がずらり。

 

病気の出はじめ、診断が下され、どんな病気かわかってきたあたり、「治りません」と言われたときのショック・・・・・・・

落ち込む要因には事欠かない。

 

私もそして、こんな“ともだち”なんかいらない、と思っているから、いやな気持ちになったものだった。痛みの中で、気分転換なんて、簡単に出来るものではない。要するに、うつ状態だったのだ、と今では思う。それが思いなら、あるいは、うつの「傾向」程度と言ってももいい。「落ち込んでいる」状態が、長引くのだから。

 

「落ち込んでいる」状態は、この病気なら普通だ。と思う。

良くないのは、それが長引くこと。長引いて鬱になったら、精神科の範囲だ。

 

でも、今の自分は、かなり這い上がった。どうやって?病気の安定を求めたこと、医者との戦いがあったこと、病気の外で、社会と闘ったり、人に会ったりしたこと、どれも貴重な体験で、それらが今の私を作っている。怖がりながら何か始める。泣きながら、適当にさぼりながら、時間はいつかたつから、ことは終わる。

・・・・・・いつか終わるから、それが自信になったらしい。

 

そうして、悲しい発言があったときには、それがどんな内容であろうと、きっと、この人は今、余裕がないんだ、と思いたい。私も余裕がなかったから。

 

初心忘れるべからず。

 

020305

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一生飲む薬

 

50歳は過ぎていそうなヒトを知っている。喉あたりの微妙な所に問題があり、手術をする可能性も普通はあるが、キストがとれないとかで、薬で抑えている。胃も荒れているのか、声にも影響している。癌でなければ良いのだが。また、妹が5ヶ月前に死んで・・・と、悪いことづくめだ。

「薬を死ぬまで飲まなきゃいけないのよね」とこぼす。この日は、なんだか「私もよ」と軽くいう気にはならなかった。

 

喘息のある友人。「この薬が効くんだけれど、一生飲まなきゃいけないのよねえ」

あんたの病気とは軽さが違うんだよ、とふと言いたくもなるけれど、本当は、病気に軽いも重いもないことだろう。

 

意外と、薬と一生付き合う人は多いのではないか、という気がしてくる。

 

癌の人は治療をし、治療後も検査を続けるだろう。ずっと飲む薬だってあるかもしれない。

エイズ患者も、今の所、死ぬまで薬と付き合う。

 

なんだかんだいって、人間「死ぬまで付き合うもの」が、あれこれあるんじゃないだろうか。ゴハンだって食べなきゃいけないんだし。

 

一生分の薬を目の前に積み上げてみたら恐ろしいことになると思うけれど、毎日毎日ノルマをこなしていけばいいことなのだ。

自分の体が作ってくれないものを、薬は補助していると思えばいいのかもしれない。

 

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生き方・暮らし方

 

ひとりでくらす・ふたりでくらす・家族とくらす

 

ひとりでくらす

自分の好きなペースで暮らせる・誰にも邪魔されない・財産は自分の好きに使える・人に迷惑かけない

仕事がないと、収入が不安・病気がひどく、寝たきりになったりしたら不安・さびしい

ふたりでくらす

少し気を遣う・けんかもする・ふたりで楽しく暮らしたい・子どもいらない・お金の計算する

 

子どもはいらないという選択

子供が欲しいこともある・

こどもができないこともある

 

家族とくらす

親が関節リウマチだ・私が患者だ・子供が欲しい・子供がいる・同居する義両親がいる・両親がいる・家庭で介護する年寄りがいる

 

いろんな生き方、いろんな暮らし方。自分で選ぶこともある。選ばなくて自然になることもある。

 

040305

 

 

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