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痛い話

200410月記

 

リウマチは痛いので、痛い話をしよう。以下は、治療を始める前に身を持って実験した関節リウマチ痛みのレポートである。痛みを説明するといっても難しいもので、「できないこと」の羅列になるであろうが、その「できないこと」から少し想像の翼を広げていただければ幸いである。

 

私は、症状が手にしか出ていない。関節リウマチは全身病なのだが、出る関節、症状はまったく人それぞれであり、私よりひどい症状の方は多くおられることを、前もって断っておく。

この痛みは説明しようもなく、想像もしがたい。それは、症状が比較的安定している今の私にも言えることで、初期の痛みは思い出せない。ただ、精神的な痛みがリアルに思い出されるのみである。(でも、脳細胞が痛みを覚えてるんだって。あーあ、忘れて欲しいのに)

 

妊娠中、出産後の話  以前のトラブル  最初は怖い

 

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妊娠中、出産後の話

まだ病気を知らない、治療前の話である。いたいいたいいたい。なにもしなくても、じんじんする。やけどした時とか、手を派手にぶつけると、そのあとしびれるが、そんな感じが始終している。始終と書いたが、終わりはない。さらに悪いもので、こういうときは手の感覚が鈍り、どこまで自分の体なのか忘れるのだろうか、不必要にぶつけたりする。そのショックは、泣くほど痛い拷問であった。全身が、いや、手が、弁慶の泣き所になっていると言うか。使ったら、もちろん痛い。

 

一般的に巷では、関節リウマチは、妊娠中は症状がおさまる、のだそうだ。私の場合は、妊娠中も、はでに手が痛く、おにぎりの3個も重かった。今思えば、いったいどうして握ることができたのか、かなり謎である。節約への主婦の情熱か。

外出先のトイレは怖かった。鍵をかけたはいいが、再び無事に出られる保証はなかった。鍵をかけずに用を足すか、閉じ込められる覚悟で用を足すか、スリルは二つに一つ。いや二つ。

下着をおろすのも痛い。指に力も入らないし、それをやると痛みが走るので、ぱんつをはさんでおろすのが、小学生が高校数Tの教科書を読む以上に困難である。親指と人差し指の間で下ろすのがコツです。この頃、おなかの張り止めの座薬をもらっていた。ひとりで使っていた。謎である。

郊外へ仕事で行ったら、電車のドアは手動であける。普通でも力がいる。自分ひとりが乗っているのに気付いて青くなった。他の車両とは通じていない。仕事なのに、ドアを開けられなくて電車から降りられず行けませんでした、とは言えないではないか。根性で降りたようだ。

 

出産台には、力むのに握るバーがあるが、握れないし力を入れたら痛くて力が抜けるので、使いませんから、と宣言しておいた。あかんぼには、フランスとはいえ、お湯をつかわすことにかわりはない。しかし、誰が乳児の首を支え、湯に入れるなどという器用なことができるか。よって、これは、入院中から連れ合いの仕事だった。オムツ替えは、痛いイベントである。赤ん坊は親を蹴飛ばす。紙おむつで洗濯の手間は省けるが、これは、ぺりぺりとシールを剥がすのが痛い。それ以前に、病院で与えられるコットというやつ、深すぎて子供を取り出せないではないか。目の前のわが子を、いかにして手中にゲットするかが、入院中の大課題であった。子供を襲うかのように、かがみこんで、腕全体を背中に入れて、手をできるだけ使わないで支えるようにしていた。でも痛い。

 

自宅に帰ってからは、たまには、子供を抱いて外出したかったが、鍵の開閉ができない。いたくて「ひねる」という当たり前の動作ができないのと、どのみち必要な力がないのだ。だから、閉じこもっていた。こういう状態をヒッキーと言うことを知ったのは、数年のちであった。浦島太郎。

 

でも外出に挑んだこともある。自分の着替え、子供の着替え、抱っこ紐。これは、もらいものを最初使っていたのだが、古いデザインだからか、子供が落ちそうになっているのに気付かなかったことがあったので奮発して新しいのを買った。日本でも知られているメーカーで、大きなパッチンボタンが頼もしい。が、これは普通のお母さんように作られている。いかに有名メーカーといえ、手首の動かないおかあさん用に生産はしていない。もう外は暖かくなっている時期、高めのベビーベッドの上で、とりあえず子供を包み込むことに成功したが、そのまま私は上半身を子供の上にしたまま、15分ほど格闘していた。子供は嫌がっていた。ボタンがもちろん恨めしい。

乳児にとっては優れた設計で、お勧めである。首が安定する。しかし、手に問題のないおかあさんでも、胸の上のほうでボタンを操作するのは難しいということを発見してしまった。まして、手首がないに等しいものには・・・・

 

地下鉄の中は妙に暑くて、子供はむずがっていた。がんばってくれ、もうひと駅でうちだから、というところで、親切なおばちゃんが注意してくれたね、「暑がってますよ、出したら」って。ありがとう、でも、外すと、私が地下鉄降りられないんですよ、とにっこり笑って言う余裕はなかったあの頃。そこまでバカにすることはないでしょうよ。(と怒り出す気力でもあったら、ストレス発散できて、まだましだったかもしれない。)

 

こんな状態でも病気とは気付かず(だって、日本の雑誌には、出産後あちこち痛いって話が載ってたもん)、のんきに自動車に乗せてもらったら、ドアの開閉ができない。この世には、あんな重いものがあるのか。手にショックが来るドアは、怖かった。高級車ではなかったのは確かだが。

こどもに夜中のミルクも与えねばならない。乳首を拭いてー、消毒してーなどとマニュアルどおりしていると腹を空かせた赤ん坊というのは泣くことに集中度を増し、ボリュームも増す。ビン入りのミルクを用意していたが、開ける力もない。開けようとしても、自分が痛い目に合うだけで目的は達成できない。よって、これは連れ合いの仕事となった。

 

痛みの説明になってない。書きようがないものだ。

できないことは多い。要は。信じられないほど普通のことができない。他でも多くの方が書かれておられるであろう。

 

そうだ、この間、私の出費は減ったはずだ。かばんをあける、さいふをだす、さいふをあける、かねをだす、つりをもらう(おとさぬよう)、つりをさいふにしまう、さいふをかばんにしまう、かばんをしめる、しなものをふくろにいれる、しなものをもつ、という文章を、3歳児が書き写しているくらいの時間をかけてしていたはずである。(読んでくださった方ありがとう。)あと、シェック(小切手)、という、紙一枚で支払いができるシステムがあるが、これも、かばんをあける、シェック帳をだす、一枚ちぎる、以下省略、ねだんを自分で書き込むのだが、最後に、サインをしなければならない。私は、日本語の自分の名前をそのまま使っているが、このときは日本人であることを後悔した。日本語というのは、画数が多く、腕の運動が多いのである。さらに、銀行へ現金を下ろしに行くと、カウンターが自分の胸の辺りまで来て、そこまで腕を上げる力がなくなっていた私は、我が財産にめぐり合うのにも泣いた。

カードはないのだ。もっていたら、暗証番号を打つのが怖いだろう。

 

自分の名前もかけない。ボタンかけも痛い。着替えが長い。食べていると、フォークがぽろりと意思に無関係に落ちる。コーヒー飲むのも、つらい。カウンターでカフェというのが生意気にも習慣になっていたが、このカウンターも高い。あの小さなエスプレッソのカップは、何故かがっしりして重い上、取っ手も小さく、指一本で支える。拷問である。カウンターにおいたまま、ずるずるすする手もある。

出産してから、ずいぶん節約に身が入るようになったようだ。

 

どんな動作も、普通の時間の、少なくみつもって、10倍はかかる。

手が、手が、痛かった。仲間には怒られるかもしれないが、足に症状が出なかったので、「歩く役立たず」だと思った。人間の動作に占める手の働きの割合は、異常に大きいのである。石を投げられ、掲示板に悪口を書かれるかもしれないが、足が動かなくてもいいから、手を自由に使えた方が良い、と本気で思った。思っただけであるが、それくらい手が使えないと言うのは不便で切ない。今でも思う。

 

この頃、事故で失った両手を、移植をした患者があった。世界初だという。フランスのことなので、手術にあたって、サインをしろといわれたそうだ。他人事ながら、心底腹が立った。・・・ああ、私は手がちゃんとついてるんだ、でも、あまりかわらないな・・・なんて思った。でも彼の希望に燃える姿に感動した。この先、何が起こるかわからないのに。体に合わなくて、異変があるかも知れないのに。実際、アメリカで同様の手術をした人は、再び切断してしまったそうだ。

どちらも切ない身近なニュースだった。

 

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以前のトラブル

今覚えば、妊娠する前にトラブルがあった。

92年、突然手が痛くて、字が書けなくなった。慌てて左手で練習しようとしたら、同じように痛くなった。フランスへ来たばかり、語学学校に通っているときだった。ストレス満載のころ。

93年、思い荷物が持てず、ごろごろ引いて行くことにした。

95−6年、あれこれ忙しかった。突然手に痛みが走ることがあった。94年からの作文もどきを仕上げなくてはならなかったが、手が痛いのを理由に、ぎりぎりまで延ばしてもらった。でも、自転車には乗ってたな。だから疲れか、と思っていた。肩上がらず、下着を付けられない。ばんざいをして寝ていたので、冷えたらしい。自業自得。

97年、人に手をとられると(女性にだが)、それが痛いこといたいこと・・・・むかつく。拍手できず。握手したくない。普通の挨拶なんだが、手を握った上に、ぶんっと振る人がいるんだな。これはいたい。

そして、たいてい疲れていた。

 

私は、昔から字を書くのが好きだから、腱鞘炎にでもなったか、と思っていた。92年前にだって、トラブルはあった。もちろん過去のことだから何だったのかはわからない。しかし上記の時点でリウマチ医にかかっていたら、変形は避けられたかもしれない。96年あたりは、確実にリウマチが出ていたと思うからだ。

全く、我ながら、気がつけよ、オイ・・・と思うが、リウマチなんて病気知らなかったんだから仕方ないよー。周りの医者だって、何も言ってくれなかったもんね。私だって聞かなかったけど。

 

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最初は怖い

だれでも、あんだは一生の重病だといわれたら、怖い。と思う。私は怖いというより、ひたすら暗くなったが、似たような反応でしょう。

 

「病気宣言」

「ショック」

「落ち込み、悲しみ」

「怒り・・・なんで私が?何か悪いことをしたというの?」

 

という経過を経て、おちついて「病気と共存」することを覚える、というパターンがあるそうだ。

癌を宣告された場合も同じで、もし悲しみにどぼーんとはまっていたら、命が終わるまで、愕然として死に向かうしかなくなってしまう。しかも、ショックのあまり、治療を始めても、精神と体が受け付けないことも考えられる。それでは、できるはずのことまで、できなくなってしまう。関節リウマチなら命は脅かされないが、落ち込んだまま何年も過ごすことは可能だ。

 

だから、なんとか病気と共存することを考えよう。背後霊がとりついても、殺しに来たわけじゃないんだ。

なんかいいことがあるかもしれない

 

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